著:内田 麻理香
出版社:ディスカヴァー・トゥエンティワン 発行年:2010年
一般読者のみならず、若手研究者等にも強くお勧めしたい珠玉の一冊だ。ざっくり通読することによって、「まず最初に疑ってかかる」という、科学の基本的態度そのものを再認識するに違いない。科学リテラシーは、科学的知識よりもむしろ科学的思考法、つまり「なぜ?」という疑問に真正面から誠実に向き合うことの方がより重要なのは論を待たない。本書はそのことをフラットな立場で強く気づかせてくれる、良質の自己啓発書と言ってもよいだろう。
首尾一貫、第三者的な視点で科学と接するスタンスは、慧(けい)眼に値する。典型的な例として、「ノーベル賞・フィールズ賞受賞者による事業仕分けに対する緊急声明と科学技術予算をめぐる緊急討論会」(2009年11月25日、東京大学小柴ホール)で行われた、一連のやりとりを取り上げている。このとき、動画投稿サイトUstreamによるインターネットライブ中継とミニブログTwitterへの書き込みが同時に行われ、会場内外でかなりエキサイトした状態になっていた。著者の内田氏も会場の小柴ホールまで足を運ぶことはなかったものの、UstreamとTwitterのタイムライン(時系列で流れていく発言)をずっと眺めていたという。
ここで起こったことは、今後の科学のありかたを考えていくためにも、きちんと文字にしておく必要があろう。高名な科学者から投げかけられた、討論会の取材に来ている新聞記者への一方的な批判の後、狂信的な「場」の空気を感じ取った一部のサイエンスコミュニケーターに対する罵詈(ばり)雑言まで飛び交い、一触即発のただならぬ雰囲気に包まれた。本来、科学者の味方であったはずの人たちをことごとく敵に回し、「科学者の決起集会」、「蜂起」などという言葉が飛び交い、科学者がひと言発言するたびに熱烈な拍手が起こる様子は、さながら「科学教の狂信者集団」に見えた、と評している。
科学者であれ、非科学者であれ、思考停止してしまってはいけない。食い違う他者の意見を頭ごなしに糾弾し、封じ込めて独自の判断を下すというのは、決して科学的な思考とは言えまい。まして、科学者を標榜(ひょうぼう)する人たち自らが科学的な思考を放棄して繰り返し行った高圧的な言動を、インターネットを通じて世界中の人たちに開示したことは、科学者コミュニティ全体に対してネガティブな印象を与えることになりかねない。科学者の態度をそのまま伝え「なかった」新聞メディアは、高名な科学者たちよりもはるかに大人の対応を示したといえる。
著者は、教条主義から解き放たれ、自由でかつゆるい、柔軟性のある科学を提案する。科学は、世の中すべての事象を解決してくれる「魔法のつえ」ではない。私が研究協力者としてかかわっている、科学技術振興機構社会技術研究開発センターの研究開発プログラム「科学技術と社会の相互作用」中村多美子プロジェクト(不確実な科学的状況での法的意思決定)では、法律家が科学の適用限界を知ることによって合理的な法的意思決定を支援するための問題解決型研究を行っているが、本書を読み進めていくうちに、科学の適用限界を知るための教育は、現役の科学者に対してさえも必要不可欠なことなのかも知れないと思われた。
科学の適用限界を知った上で、疑う心の「欠如モデル」に陥らない、というのが、全体を通じて著者が読者に伝えたかったメッセージなのだと感じた。
提供 JST (立花浩司・サイエンスカフェ「科学ひろば」/「法と科学」プロジェクトメンバー)