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裁判官が科学裁判をめぐる訴訟を判断するには(下)


 昨今、科学コミュニケーションという言葉をしばしば耳にする。いろんな文脈で語られるものの、ここでは、科学の楽しさをわかりやすく伝えるという科学教育のような話ではなく、科学技術に関連する「法的意思決定」をどう行うのかという問題にかかわる「コミュニケーション」を考えてみたい。

 ちなみに、(独)科学技術振興機構/RISTEX 研究開発プロジェクト「不確実な科学的状況での法的意思決定」科学グループは、裁判所における科学技術のコミュニケーションのより良いあり方を探っている。その取り組みの一つとして、今年8月26日に国際シンポジウム「科学の不定性と社会 ~ いま,法廷では..? ~」を東京で開催するので、この場を借りてご紹介したい。

 さて、政策形成型裁判においては、裁判所といえども政治とは無縁でいられないと前稿で書いた。つまり、裁判官は、自分の個性を法に埋没させた純粋な解釈適用者としてはいられず、判決がもたらす社会的影響を予想した結論を「決定」しなくてはならなくなる。

 裁判と立法・行政過程を決定的に区別するのは、裁判は原則として「是か非かで対立する当事者の、公開の場で行われる議論を通じて、紛争に利害を持たない裁判官が行う裁定」であるというのが伝統的なとらえ方である。

 前稿で、裁判官は原則として合議体以外の第三者に相談できないと書いた。もっとも裁判官は非常によく勉強する。裁判官室の書棚には、法律書以外にもあらゆる分野の、おそらく事件(裁判の対象となった紛争を法律家は「事件」と呼ぶ。)で必要となったと思われる様々な書籍が並んでいる。それでも、裁判官が大学時代の友人などに、「原研に勤めてるんだってね。もんじゅの仕組みって、本当のところどうなのか教えてくれそうな、誰か詳しい人紹介してくれない?」などと聞いたりすることは想定されていない。まあ、実際には聞いているかもしれないが、それがフォーマルに表れることはない。

 裁判官が専門家に「科学技術」のことに限って聞くのに、何の問題があるのかと思われるかもしれない。しかし、現実に、裁判のフェアネス(公正)は、真にフェアであるかどうかというよりも、フェアプレイであることに力点がおかれていることが多い(裁定者が真にフェアかどうかなど、制度的に決めようがないからだ)。裁判官がフォーマルな手続きを離れて、科学技術について専門家と対話するというのは、喩えて言うなら、サッカーの審判が判定に迷ったときに、やおら携帯電話を取り出して、「今の見てた?そっちから見てて服を引っ張ったかどうかわかった?」などと聞きはじめるような感覚に近い。プレイヤーに直接関係のない人であっても、誰にどのように相談するかという点において「恣意」を感じてしまうと、その裁定の公正さは失われてしまう。

 さらに科学技術に関することは、誰に聞いたって「同じ」結論になるはずという考え方が問題の困難さに拍車をかける。かくして、これまで、裁判所では、科学技術に関して審理をする際、当事者双方と裁判所が協議して、専門家証人を一人ずつ呼んで「尋問」してきた。専門家証人は、法律家の群れに取り囲まれ、「聞かれたことだけを答える」ことを要求される。それが、法廷の「科学コミュニケーション」だった。

 しかし、専門家の意見は一致しないことも少なくない。というより、紛争そのものを取り扱う法廷の場面では、専門家の意見が一致しないからこそ紛争になっているともいえる。そうすると、証言に立った専門家について、御用学者だ市民派だとかいう不毛きわまりない議論に陥ってしまう。

 このような現状を踏まえて、川崎氏がした工夫の一つが、口頭弁論というフォーマルな審理ではなく、非公開の進行協議の場で双方の専門家に質問をしてレクチャーを受けるという方式だった。

 川崎氏は次のように述べる。「当事者双方には専門家がついていますが、裁判所には専門家がいないので、双方から説明を聞いた方が理解が速いと判断しました。進行協議にしたのは、非公開なので自由に質問や議論ができるからです。公開の口頭弁論では、発言が慎重にならざるを得ないのです」

 非公開の進行協議の場で専門家から自由なレクチャーを受ける、というアイディアは、実は川崎氏だけのオリジナルではない。医療事件や建築紛争など、専門的知識を要求されるものの紛争が類型化しているケースについては、全国の裁判所で様々な裁判官が工夫を凝らして、現行制度の中で、よりよい審理を実現しようと努力している(カンファレンス方式などと呼ばれる)。ただ、それは裁判官個人の裁量に委ねられているのが現状である。

 しかし、カンファレンス方式が、日本の多くの科学技術をめぐる困難な訴訟(特に政策形成型裁判)で採用されることは極めて稀であろう。川崎氏にもその理由はわからないと言う。実のところ、川崎氏も述べるように、こうした非公開のレクチャーは当事者にも裁判官にも相当の負担を強いる方法である。むしろ、粛々と従来の方法に従って、口頭弁論だけで審理を進め、当事者が出してきた証拠を普通に読んで考える以上に踏み込んだ考察をしなくても、裁判所の職責は果たされるのがタテマエである以上、川崎氏のような労力をかけるだけの熱意を持つ裁判官が少ないとしても仕方があるまい。

 もっとも、そのような裁判所でよいとユーザーである市民が思うかどうかは別である。立法でも行政でも解決されなかった難しい問題を、市民が直接、「法」に問うことができるのが裁判所である。その裁判所で、重大な社会問題について、せめて納得のいく議論が実現されることを求めて提訴する人々がいる。

 裁判所における科学技術のコミュニケーションデザインは、どのようにあるべきか。

 オーストラリアのニューサウスウェールズ州では、複数の専門家が同時に法廷で議論するコンカレントエヴィデンスという手法がとられている。どんな領域でも、同じ専門家の前で議論をするならいい加減なことは言えないであろうし、聞いている方も、どこまでが専門家にコンセンサスがあるのかないのかわかりやすい。

 ただし、法廷における科学技術コミュニケーションの問題は、豪州のような方式やカンファレンス方式にすれば解決するというものでもない。そこには、「法」そのものにまつわるもっと根源的な問題が存在する。

 一つは、民主主義と多数決原理だけで法的判断が成り立つわけではないという問題である。科学コミュニケーションは、時に「科学と民主主義」といった文脈で語られることがある。科学技術が社会にもたらす問題は、科学技術の専門家だけに決めさせるにはあまりに重大であるからこそ、非専門家も交えて「民主的」に決めていこうという論調である。こういう主張をする人たちは、民主主義は法律家の得意とするところと思っている節がある。法律家からすれば、それはあまりにもナイーブな見方である。法律家の仕事の一つは、多数決の専断が許されない価値について論ずることでもある。多数決が支配する「政治」と「法」とを区別する大きなポイントである。

 もう一つは、「事実」と「価値」の区別にまつわる問題である。科学技術者との対話から感じるのは、特に科学者が、「事実」は「法的」なるものから容易に区別できるように考えていることだ。ところが実際には、紛争の中で、それほど容易に「事実」と「価値」は区分できない。特に、裁判の中で認定される「事実」は、適用される「規範」のもとで構成された事実であり、科学的事実そのものとは異なる。

 科学技術をめぐる訴訟のあり方を考えるには、こうした根源的な問題までさかのぼって議論する必要があると思う。

中村多美子

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