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科学技術を法の文脈でとらえる難しさ--「人体の不思議展」裁判は新時代を開くか


 京都で開催されている「人体の不思議展」の展示標本について、厚生労働省が法律上の「死体」にあたると回答したことを受け、京都府警が捜査に乗り出した。さらに、2011年1月20日、京都市の大学教授が、自宅近くで大量の「死体」が展示されたことについて慰謝料を求める裁判を京都地裁に提訴したと報道されている。

 人体の不思議展とは、献体された人体に樹脂を染み込ませるなどした「プラストミック」と呼ばれる処理方法で保存した人体標本らしい。日本で何度も開催されてきた展覧会が、今、なぜ刑事捜査の対象となり、損害賠償の裁判が起こされたのか。科学技術を法や裁判という観点から考えてみたい。

 遺体に対する敬虔な感情やそれを尊重しようとする秩序は、様々な時代的・文化的・宗教的背景にあっても、社会がそれなりに共有してきたものだ。現在、死体の遺棄や損壊は刑法で禁止されているが、学術研究目的など一定の理由がある場合について特別法でその例外が定められている。このように、法は、ある種の「常識」(社会的な思いこみ、と言ってもいい。)をベースにしている。

 他方で、科学は、人々が持っている「常識」を疑い、「常識」や「直感」ではなかなか気づけない科学的事実を明らかにする方法論である。技術もまた、それまでの常識を越える事柄を実現する。「人体の不思議展」の公式ホームページでは、「プラストミック標本」について、次のように解説している。『標本といえば、20世紀後半まではホルマリン容器に入った白色の保存臓器や模型のがい骨などを使っており、医師ですらその匂い、扱いにくさに困惑していました。 そのような難問を解決した標本が今回の『プラストミック標本』です。新技術で作られたプラストミック標本は匂いもなく、また弾力性に富み、直に触れて観察でき、常温で半永久的に保存できる画期的な人体標本です。医療の現場など特定分野でしか知りえなかった「人体標本解剖」の一般公開を可能にした革新的技術。「人体の不思議展」において、その感動を直接体感できます。』 今までのイメージや常識を覆すような革新的技術。それによってもたらされた「プラストミック標本」が「常識」をベースとした刑法や死体解剖保存法と即座に結びつきにくかったのは想像に難くない。実際、報道コメントでは、「これって本物の死体だったのか」という論調も多い。科学技術の成果を、法の文脈でとらえるということは、それほど簡単ではない。

 このように、常識を覆すような科学的方法論や技術は、ときとして、常識をベースとする法と摩擦を起こし、社会的な紛争のひきがねとなる。特に、現代では生命科学の分野において、科学技術と法との抵触が問題となる場面が増えている。今回の騒動も、革新的な科学技術を法の文脈で再構成したと言えるだろう。

 慰謝料を求める民事訴訟は、もう一つの問題を投げかける。すなわち、学術研究目的と社会規範の問題である。確かに、新しく開発されたプラストミック標本は、従来とは異なる方法で人体に関する人々の理解を深め、生命等について教育研究する機会を提供するという学術的な側面もあるだろう。科学という営みの中では、このように科学的知識を増やす方向性は、基本的に「善」として扱われる。

 しかしこの科学の「善」は、法に代表される社会規範とせめぎあう。多数の遺体が自宅近くで展示されていて、しかも商業的色彩が強いという点に着目すると、法が法益とする遺体に関する敬虔感情や公序は損なわれてはいまいか。

 ここでしばしば不思議に思うのは、「慰謝料請求できるかどうか」のような法的命題について、法律家はYesかNoかで答えられると多くの人が考えているようだということだ。そして、その結論は、法律家の間で常に一致するとも思われているようである。特に、科学技術者にこの傾向は強いように感じることがある。

 法の解釈や適用は論理的で緻密などと言われるが、それは、法が常に一義的であるということではない。むしろ、社会のコンセンサスという、ある種検証しにくいものを出発点にする以上、法の解釈や適用は、時とともに変化しがちだし、解釈・適用する人(裁判官)によって異なることも珍しくない。もっとも、強制力のある法の解釈・適用が場当たり的では、人々は安心して社会生活を営めない。そのために、法システムには安定性も要求される。こうして常に法のシステムは、不確実性と安定性のせめぎあいの中にある。

 新しい社会問題を争点とする裁判では、法システムの不確実性が強く出てしまう。さらに科学技術がからむような訴訟では、科学における善と法的正義がぶつかりあい、法システムの不確実性はいっそう増す。そんなとき、法的論拠だけを積み重ねていっても、法的議論はいずれ壁につきあたってしまう。

 法的議論が壁につきあたるとき、法システムの不確実性は積極的に作動する。解釈・適用に幅がある、ということは、法システムが外界に向いて開いている、ということでもある。法システムは、新しい問題について従来の法を解釈・適用するにあたり、広く社会の要請をくみ取ることが可能だ。そして、社会の要請の中には、科学の要請もまた含まれるだろう。

 裁判という法の器の中で、社会が新たな科学技術を議論するフォーラムができないだろうか。この民事訴訟で、科学技術と法の問題がどこまで踏み込んで議論されるのか、注目したい。

中村多美子

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