年の瀬押し迫る12月22日、来年度の科学技術予算の増額が首相主導で指示され、27日には、これを受けてノーベル賞受賞者らが首相を表敬訪問したと報じられた。本稿は、そんな報道を目にしたマチ弁の独り言である。
マチ弁とは、町医者のような弁護士という意味であるが、私は、地方都市の一介のマチ弁である。大学病院のような大規模法律事務所と比較するなら、うちの場合は町医者どころか、野戦病院とでも呼ぶ方があたっているかもしれない。マチ弁の依頼者は、仕事を失った人、住む場所を追われた人、借金の督促に追われる人、頼れる親族もいない人、幼い子どもを抱えて夫の暴力から逃げてきた人等々、本当にのっぴきならない状況の人々だ。マチ弁は、そういう人々から、苛酷な運命に抗いながらもこれからどうやって生きていくのかという法律相談を受けるわけだが、特に年末は深刻な相談が多い。
こうした相談者の話を聞いていると、先進国と呼ばれる日本にじわりと広がる貧困、そして、人々の間に生じている経済格差の存在が身に迫ってくる。何人もの相談者と会い、それぞれの状況に応じた法的措置をとり、関係機関と折衝し、対立相手と交渉して夕闇が濃くなる頃、私の仕事は、マチ弁としてのそれから、科学技術振興機構(JST)委託プロジェクトの代表者としての仕事に切り替わる。私は、研究メンバーと研究計画を話し合い、必要な予算を算出し、研究の社会的成果について議論をかわす(実際、研究費の使い方についての煩雑なルールは、日々の科学技術研究のあり方に重大な影響を与えていると思うが、それは法律家としての目だけで科学技術研究予算を見ていたら気がつかなかっただろう。その点、来年度予算案で研究費の使い方に適度な柔軟性がもたらされることは歓迎する)。私にとって研究に携わることは、責任は重くとも、深刻な日常の業務からひととき離れて、自由に知的好奇心をのばす代え難い時間でもある。でも、そんなひとときでさえ、マチ弁である私は、救いのない現実に直面している依頼者の顔が浮かんで身が引き裂かれる思いをすることがある。果たして、私の依頼者は、科学技術予算(そして、私自らが公的資金による研究費を使っていること)の必要性をわかってくれるだろうかと考えて苦悩するのだ。
私の憂患に拍車をかけるのが、「ビバ!科学技術」調の予算編成論を耳にするときである。私自身は科学少女であったし、今でも科学に対する憧れを抱いている。自分の子どもにも科学の楽しみを知って欲しいと心から願う。加えて、スマートフォンやモバイルwifiなど時流にあった科学技術を利用して日常業務を行ってもいる。「はやぶさ」の業績には心が躍った。それでも、科学技術予算をめぐる議論の中で、科学技術のすばらしさ、科学がもたらす夢や希望を強調した論調は、納税者の共感を得られるであろうかと思わないではいられない。なぜなら、マチ弁である私の目の前にあらわれる依頼者の多くは、ポピュラーサイエンスとも最先端科学技術ともあまり関わりのないところで生活し、その豊かな利益を直接に享受する機会は乏しいように感じるからである。貧困にあえぐ一人親家庭の子ども達などは、経済的な事情ゆえに将来への夢を思い描くことさえも許されない状況に追い込まれている。
もちろん、科学技術研究に従事する研究者社会だって、安穏とした世界ではない。厳しい競争的研究資金の環境におかれ、シビアな研究評価に直面している。特に、いわゆるポスドク問題は深刻だ。養成するのに多額の費用と年数をかけても、社会にその出口が少なく、他の職業で生計をたてていくのも難しい年齢に達してしまった高学歴の人々のおかれた状況を忘れることはできない。
科学技術立国という理念自体否定するつもりは毛頭ない。特に基礎科学分野で充実した研究がなされることが長期的な日本の経済戦略に不可欠であることは論ずるまでもないであろう。しかし、基礎科学は、基礎であるからこそ「燃費が悪い」。何のための科学技術研究なのか、誰のための科学技術なのかを自らに厳しく問い続ける姿勢がなくては、巨額の予算配分に対する社会の理解を得ることは難しいのではないかと、自戒をこめて思っている。
中村多美子