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「回避したいものを回避できる権利」こそ大事


 連日、あらゆるメディアに「専門家」を名乗る人々が出てきて、原発と放射能汚染の問題について、様々な見解を論じている。

 私は、どんなに聞いていても「よくわからない」普通の市民の一人である。科学の素人の一人として、この情報の氾濫にどう対応したらよいのだろうかと途方に暮れる。というか、もうあきらめた、と正直に言おう。

 実際、科学技術情報の氾濫について行けず、我流でも聞きかじりの「科学」に基づく見解を言わねばならない風潮に、多くの人はうんざりしているのではないだろうか。なお、ここでいう「市民」とは、政治的・法的判断責任を負っている科学の素人は含まない。私が見ているのは、原子力政策に影響を及ぼすことなどおぼつかず、日々の生活を維持するために、日常的な生活を送っているごく普通の人々のことだ。

 普通の人々の中には、切迫した危機感にかられ、果敢に先端科学技術分野を学ぶ人もいる。多くの科学者たちが「きちんと勉強して、正しく恐れるべし」と盛んに言うからだろう。

 けれども、物理や医学の教科書を読みあされば、あふれる情報の中から、何が意味のある科学的情報なのかがわかるわけではないように思う。なぜなら、科学的事実の多くは「数値」というデータの形であって、そこから日常的な意味におきかえて説明するには、専門的な科学教育訓練が必要だからだ。それゆえ科学に関する問題は、それぞれの専門家の解釈付きにならざるをえない。流布される「データの解釈」を素人である市民にわかりやすく伝える必要性が出てくるし、実際それは非常に大事なことだと思う。とはいえ、解釈である以上、個々の科学者の説明が、全て一致することはおよそない。

 加えて、科学的知識そのものにも、不確実性が内在している。ノーベル賞物理学者であるリチャード・ファインマンは、「科学は不確かだ!」(岩波書店)で、こう述べる。「科学の法則、原理、観察結果の報告のどれをとっても必ず細かいところは省いた抄訳です。なにしろ、正確無比に記述できるものなどはなにもないんですから。(中略)だから科学者は、疑いや不確かさに慣れっこになっています。もとより科学的知識とは、すべて不確かなものばかりなのです。またこうして疑いや不確かさを経験するのは大事なことで、これは科学だけでなく、広く一般にも非常に価値のあることだと僕は信じています。」

 科学的事実に内在するこのような「不確実性」を、市民はどのくらい認識しているだろうか。そして、科学の専門家が抱いている不確実性とのギャップはどれくらいあるのだろう。ファインマンは同著の中で、こうも述べる。「現在科学的知識と呼ばれているものは、実はさまざまな度合いの確かさをもった概念の集大成なのです。なかにはたいへん不確かなものもあり、ほとんど確かなものもあるが、絶対に確かなものは一つもありません。科学者はこれに慣れていて、たとえ知らないものがあっても、生きていくのには何の矛盾もないことを悟っています。(中略)僕はいつだって知らないまま生きているんですから。僕が知りたいのは、どのようにすれば知ることができるか、ということなんです。」

 今回の原発事故には、通常の科学研究の手法を遙かに超える不確実性が存在する。時々刻々と移り変わる状況の中で、各科学技術分野が積み上げてきた手法を用いて、何かを「確実」に見極め、市民に「解釈」するだけのデータは入手できているのであろうか。そもそも「どのようにすれば知ることができるか」さえもわかってはいないのではないだろうか。

 しかも、市民は、ファインマンの言にもかかわらず、科学の不確実性をそれほど実感できていないのではないか。「隠蔽されている真実があり、それを正しく指摘しようとしている専門家は誰か」といった類の品定めを聞いていると、あたかも「ラプラスの悪魔」を信仰している市民は少なくないように思われる。「ラプラスの悪魔」とは、フランスの数学者であるラプラスが考え出したイメージで、一言でいえば物理法則とすべての原子の位置と速度がわかっている存在のことだ。現代物理学の発展で、そうした存在は原理的にありえないとわかっているが、もし「ラプラスの悪魔」がいたら彼はものごとの進展が完全に予測できることになる。一部の市民は、生身の科学者の中に、ラプラスの悪魔を見つけ出そうとしているのではないか。

 市民と専門家が、このように膨大な科学的不確実性を含む現象を語り合う際、専門家である科学者は、何を語るべきなのかは、別稿に譲りたい。

 ただ最後に一つ、法律家である私が大変気になっているのが、「正しく恐れるべし」の論調において、「科学的に危険性が確認できないものに過剰に反応すべきではない」という「専門家」達からの市民へのご託宣だ。

 科学者にラプラスの悪魔を求める一方で、市民は、科学者ら専門家の「安全」という言葉や「直ちに危険とは言い切れない」という言葉に対する直感的な疑問を抱いている。科学の専門家でない素人だからこそ、専門家のこのようなご託宣による過去の苦い結末をよく知っている。「直ちに危険と言い切れない」ことをできる限り回避しようとする市民の姿勢を「風評」「無知蒙昧」と決めつけたり、避難区域に留まろうとするのを一概に非難するのはいかがなものか。

 不確実性の中で何を選び取るのかにおいて、それぞれの個人の「価値」も考慮されねばなるまい。

 素人である市民が個々に判断する際に必要なのは、正しい科学的知識だけではない。価値基準は個人によって異なってる。専門家による「正しく恐れよ」というメッセージには、そうした個人の価値判断を科学の名において、全体主義的に決定するような威圧感さえも感じる。

 高度に不確実になった緊急時の状況においては、平時と異なる公共の利益とのバランスにおいて、個人のベストチョイスを尊重することも大事ではないか(そのために、平時とは異なる「緊急時の法」整備が必要となろう)。

 私は、科学技術の不確実性を議論するとき、人権の視点からのアプローチの欠如が気になってならない。

中村多美子

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